なぜ、松浦武四郎の书斎「一畳敷」を大切に保存しているのか?
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55なぜ、松浦武四郎の书斎「一畳敷」を大切に保存しているのか?
泰山荘の建造物のうち、母屋(现存せず)と待合、高风居は、江戸时代や明治时代の古い建物を移筑したものです。中でも高风居は由绪ある建筑で、纪州徳川家当主の徳川頼伦によって1925(大正14)年に建てられました。六畳の茶室と水屋をそなえたこの建物に差し掛ける形で一室をなしているのが、松浦武四郎ゆかりの「一畳敷」です。
幕末から明治にかけて全国を旅し、「北海道の名付け亲」として知られる松浦武四郎が、古希を迎えるにあたって人生最后の时を过ごす空间として设计したのが、この小さな书斎でした。武四郎は旅先で知り合った友人?知人に手纸を书き送り、数年をかけて各地の霊社名刹などの建造物の古材を集め、1886(明治19)年、神田五轩町の自邸に一畳敷を増筑します。その名の通り、たった一枚の畳に板縁を廻らせ、床の间と神棚、书棚をしつらえた空间は90もの歴史ある木片で组み上げられており、その来歴は古くは白凤时代から江戸时代にまで遡ります。
武四郎の死后、一畳敷は纪州徳川家当主の徳川頼伦の手に渡り、麻布の南葵文库、そして代々木上原の高风居へと移筑を重ねます。頼伦が亡くなると実业家?山田敬亮が泰山荘建设のために高风居を买い取り、1936(昭和11)年顷に叁鹰の现在の地に运ばれました。その后、一畳敷の所有者は中岛飞行机会社、そして戦后には滨颁鲍に変わり今に至ります。
主を替え所在が移る间、一畳敷には関东大震灾や东京大空袭という消灭の危机がありました。また、そもそも武四郎は自らの死に际し、遗骸を一畳敷の材で焼くよう遗言していました。建筑的にも歴史的にもユニークなこの建造物が今、140年もの时を超えて滨颁鲍に残されているのは奇跡ともいえます。滨颁鲍は一畳敷を含む、登録有形文化财である泰山荘を、贵重な财产として保存?活用に努めています。