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2026年 新年大学礼拝

公开日:2026年1月8日

2026年1月6日(火)、大学礼拝堂において2026年新年大学礼拝が执り行われました。

ジェレマイア オルバーグ宗務部長代行の司式で始まった礼拝では、参列者一同で讃美歌 二編第126番「この日ひとと」を歌い、マタイによる福音書第2章9-11節が朗読され、祈祷後、岩切正一郎学長から新年のメッセージがありました。

圣书朗読箇所:マタイによる福音书第2章9-11节
讃美歌:二编第126番「この日ひとと」

 

岩切学长新年メッセージ 「エピファニーの日に」

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みなさん、新年おめでとうございます。
今年の新年礼拝は、ベツレヘムに诞生した幼な子イエスを礼拝するために访れた东方の叁博士にイエス様が神の子として顕现したことを祝う顕现日(エピファニー)に当たっています。とてもおめでたい日にこうしてチャペルに集うことができる喜びを、神様に感谢いたします。

今日は、公现祭を祝ってガレット?デ?ロワを食べる方もいらっしゃるのではないでしょうか。私も教员として授业をしていた顷は、冬学期はフランス小説を読むコースを开讲していたので、ほんとうに少人数のクラスということもあって、教室でこの时期、ガレット?デ?ロワを切り分けて食べていたのを思い出します。中にフェーブという小さな陶器製の人形が入っていて、それに当たった人は纸でできた金色の王冠をかぶります。たぶん授业中、谁かがそれをかぶっていたと思うのですが、ずっとかぶっていたのか、さすがに途中ではずしたのか、あまりはっきり覚えていません。

 

日本语では、年の初めの月は、今では単に数字で呼んで1月と言っていますが、和風の呼び名では「睦月」と言っています。そこには「正月に親類一同が集まって、睦(むつ)まじくする月」という意味があるそうです。ヨーロッパの言語では、たとえば英語のJanuaryのように、古代ローマの神である「ヤヌス」の名を冠しています。

ヤヌスは、出入り口や扉の神、そして物事の始まりの神です。诗人のオウィディウスは、1月から6月までの暦と祭事を扱った『祭暦』(Fasti)のなかで、「ヤーヌス神が、あなたに、幸多い年であることを告げ」(オウィディウス 、『祭暦』(高橋宏幸訳)、講談社学術文庫、2025、p.30. (第1巻、v.64))と歌っています。

ローマの古い暦では一年は10ヶ月で、一年の始まりは3月でした。「以前にはマルスのカレンダエ[3月1日]が年の初めのカレンダエ[1日]だった」(同書、p.149 (第3巻、v.135))と詩人は述べています。

オウィディウスが生まれたのは紀元前43年で、その2年前の紀元前45年1月1日から、ユリウス暦が施行されました。(同書「補遺 ローマの暦」、p.440.)「一月一日を年初とする方式は、古ローマ第二代の王ヌーマ?ポムピリウスに始まり、ユリウス?カエサルの改暦に当ってもこれが踏襲された」(二宮敬、「年の初めについて」、『フランス?ルネサンスの世界』、筑摩書房、2000年、p.423)のだそうです。

ユリウス暦の制定者は、みなさんもよくご存じの、ローマの执政官ユリウス?カエサル、英语読みではジュリアス?シーザーで、ルビコン川を渡るときの「赛は投げられた」という言叶や、纪元前44年に暗杀されるときの「ブルータス、お前もか」という言叶で有名です。彼の执笔した『ガリア戦记』を爱読している方も、みなさんのなかにはいらっしゃるのではないでしょうか。

诗の中でオウィディウスは、一年の始まりは、木は芽吹き、花はほころび、草は萌え、鸟は歌う春から、というのが自然だと思うけれど、どうしてヤヌスの月が始まりになっているのかと质问します。ヤヌスは短く、「冬至が新たな太阳の初日であり、旧い太阳の最后の日である。そこで一年と[太阳神]ポイボスは同じ第一歩を始めるのだ」(『祭暦』、前掲书、辫.35.(第1巻、惫.163-164))と答えています。

ルネサンス以前のフランスでは、一年の始まりは、「パリおよび北フランスでは復活祭を、南フランスでは受胎告知の祝日をもって年の初めとする方式が、十四世纪ごろから有力とな[った]」と二宫先生は述べています。(二宫、前掲书、辫.424.)そのころ、暦はユリウス暦を使っていたにもかかわらず、年の初めを1月1日としなかった理由は、「それが异教の神の祝日であることをカトリック教会が忌避したから」(同书、辫.424)なのだそうです。

こうなると、復活祭の顷の4月を年度初めにしている日本は案外キリスト教的な暦への感覚と亲和性があるようにも感じてしまいます。

ちなみに、现在世界中で使われているのは、1582年にグレゴリウス13世が改暦したグレゴリオ暦です。

ユリウス暦を制定したユリウス?カエサルの次にローマを统治したのが初代皇帝アウグストゥスで、イエスはこのアウグストゥスの时代に生まれました。ローマ帝国自体は、このあと约200年、いわゆるパクス?ロマーナの繁栄期を迎えます。

ヤヌスは、前后に二つの颜を持っている双面神です。その二つの颜で、后と前を、过去と未来を同时に见ています。

古代ローマ人は、戦争が始まるとヤヌス门を开け、平和なときには闭じて、ヤヌスが戦地へ出かけて戦っているということを示していました。

20世纪前半に活跃したフランスの作家ジロドゥに『トロイ戦争は起こらない』という戯曲があります。トロイア戦争が始まる直前の状况を描いた作品です。その中で、ジロドゥは、わざとアナクロニズムな表现を使って&尘诲补蝉丑;というのもトロイア戦争の时代にはヤヌスの门はないので&尘诲补蝉丑;、トロイアの英雄エクトールに、「门を闭めるぞ」という台词を言わせます。つまり、平和を宣言するのです。それに対して、父である国王のプリアモスは言います。「亲しい人々の意见ではな、戦争の準备もできている。よおく考えろ。间违ってはいないんだ。门を闭めても、たぶんその一分后には、また开けなくてはならなくなる。」

王の言叶に対して、妻である王妃ヘカベーは言います。「一分间の平和でもあるのはいいわ。」

ヘクトール(フランス語読みではエクトール)は何というでしょうか? 彼はこう言います。

お父さんだってご存じのはずです。何ヵ月も戦っている男たちにとっての平和の意味。それは溺れかけている人が、沼にはまりこんでいる人が、やっと底に足をつけたということなんです。どんなに小さくてもいい。平和の足场に立たせておいてください。一分间だけでもいい、平和に触れていたいんです。たとえ指の先でも!

父である国王はこう言います。

エクトール!「平和」という言叶を、今、町のなかへ投げ込むのは、毒を投げ込むのと同じくらい罪深いことなんだ。〔...〕「平和」という言叶で、思い出や爱情や希望という名の通货を鋳造することになる。兵士たちはそれを手に我先に平和のパンを买い、平和のワインを饮み、平和の女を抱く、その一时间后におまえは彼らを再び戦争へ送り出す。

ジャン?ジロドゥ、『トロイ戦争は起こらない』(岩切正一郎訳)、
ハヤカワ演剧文库、2017年。(第二幕第五场)

ヘクトールは、「戦争は起こらない!」と返し、门を闭めさせます。そして、和平のための最后のチャンスであるオデュッセウスとの话し合いに临むのです。

戯曲の结末は暗示的です。话し合いは成功し、戦争は回避されたかに见えました。ところがトロイアの元老院の长であり诗人でもあるデモコスがすべてを台无しにします。彼は戦争推进派の人物で、军歌を作り、トロイアの人々に、「武器を取れ!」と开戦をけしかけます。ヘクトールは、和平をぶちこわしてしまいそうな彼を杀すのですが、デモコスは、オデュッセウスと一绪にトロイアの城に来ているギリシャ军の队长オイアックス(翱颈补虫)に杀されたと嘘をついて息絶えます。人々はそのでたらめを信じ、おそらくは民众の怒りと復讐心におされて、ギリシャとの戦争は起こってしまいます。

デモコスという名前には、デモクラシー、民主政というときの「デモ」、つまり诲别尘辞蝉(市民)という意味が含まれています。ヒロイズムの旗を振り、市民の感情に火をつけ、怒りや不安や正义感をあおって、结局は破局への扉が开きます。

そんなことにならないように、私たちは、自分たちの选択している民主政が、自由や平安や慈しみとともにあるよう祈らずにはいられません。思い出や爱情や希望が、束の间のものではなく、持続的なものであるような日常を世界のなかに作り出す必要があります。

过去と未来を同时に见ているヤヌスの月、幼いイエス様が东方の叁博士の来访を受けたエピファニーの月、この一年の始めの月に、私たちは、キリストが私たちに求める爱し方で神と人と世界を爱しながら、神様の爱に包まれ、谦虚な心で过去と向き合い、より良い未来の姿をビジョンとして持つことができればと思います。この一年が、その実现のための発明や発见や行动に取り组む一年であることを愿っています。

イエス様が生まれて、死に、復活されたあと、使徒が福音を伝えに赴いた地方で、パウロとバルナバが、生まれつき足の悪かった人を立って歩けるようにするという奇跡を行うと、人々は彼らを、ゼウスやヘルメスと崇め、犠牲の牛と花轮を二人に捧げようとしました。二人は、「みなさん、なぜこんなことをするのですか。私たちも、あなたがたと同じような人间です」と言い、自分たちは「あなたがたが生ける神に立ち帰るようにと、福音を説いている」のだと群众を説得し、犠牲を捧げるのを思いとどまらせた、と「使徒行伝」(14:11-18)は伝えています。人々は、二人の使徒のことを、「神々が人间の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」(使徒行伝14:11)と叫んだと言います。イエス様も人の姿をとって私たちのもとへ降临されたので、神が人间へ顕现するという形式は同じなのですが、キリストは人间と共にいて、苦しみを共に担い、私たち人间に真理の道を开きました。ゼウスやヘルメスが热狂的に信じられている风土のなかで新しい宗教がみずからを确立していくのは、どんなに険しい道だったろう、と思います。

 

今年は、本学が、2026年から2030年までの、5年间の中期计画を策定する年でもあります。常に変化する状况の中で、私たちの実践するリベラルアーツ教育が、自然や人间性と调和した社会の建设に寄与する学び、そして探求となるよう、「生ける神」(使徒行伝14:15)である神様のお导きのもとに、进んでゆきましょう。