2009年以降、「タフな东大生」を掲げ教育改革が进められた
东京大学においてそれを支えた吉见俊哉氏。
「大学」の存在意義に迫る学长 岩切正一郎との対話の記録。
#リベラルアーツ #実践知 #カレッジ #ユニバーシティ #帝国大学
「リベラルアーツ型大学」
歴史的视座から展望する、その使命とは
地球规模のパンデミックにより目まぐるしく変容し、痴鲍颁础时代(将来の予测が困难な时代)とも呼ばれる现代。
先行き不透明な社会に対応すべく、高等教育界も変化を迫られている。
「では、これからの大学はどう在るべきか」。
その问いに対する正解は、これまでのリベラルアーツ教育が重ねてきた歴史の中に手掛かりがあるのだろう。
どのように発展し、どのような役割を担ってきたのか。
そして、现在の日本における「大学」とは、一体何か。
学生时代を东京大学で过ごした岩切学长と、东京大学を卒业后、同大学で教育?研究や教育改革に従事し、さらにはハーバード大学での教育経験もある吉见氏。共有されたバックグラウンドと高等教育に対する知见を持つ二人が対话を通じて、中世から现代までを俯瞰し、未来を展望する。
対话の中で浮かび上がった数々のキーワードに着目しながら、大学の在り方と「滨颁鲍を滨颁鲍たらしめるもの」について思考を巡らせる。
Paragraph 01
学问における「自由」とは。
大学黎明期を振り返り、见据えるその「意义」。
文部科学省の『2040年に向けた高等教育のグランドデザイン(答申)』や过去の文教施策において重要性が示されてきた「教养」。また、近年の日本において多くの大学が导入を表明する「リベラルアーツ」。
リベラルアーツは、しばしば単なる教养や一般教养と认识されることが多い。この点も踏まえ、二人の対话は吉见氏の「教养的な知とリベラルな知は対立するところがありますね」という言叶から始まった。
「教养は颁耻濒迟耻谤别とも呼ばれます。耕すという意味を持っていますので、ある种决まった土地と结び付いた考え方と言えるでしょう。やはりリベラル、自由とは异なる意味合いを持っています」と答える岩切学长。
さらに「国や地域、土地に根ざす文化や习わしの起源を明らかにし発展させる。その基本的な素地として、教养(肠耻濒迟耻谤别)は役割を果たしてきました。一方で、教育の现场において形成されたリベラルアーツは、まさに学问における『自由』を起源とします」と続けた。
リベラルアーツは、中世ヨーロッパにおける文法や修辞、数学、天文といった自由七科にはじまり、12世纪から13世纪の大学成立期には、神学?法学?医学の3つの知に対するある种の「対抗的」な存在であった。神学は神のために、法学は国家のために、医学は人间のためにある。それら実践知とは対照的に、国家や都市、権威等、特定の目的のためではなく、自ら学ぶという行為自体に価値を有する学问の侧面をリベラルアーツは担ってきた。
国や地域と强く结びつく教养(肠耻濒迟耻谤别)と、现代における「学问の自由」のベースとも言えるリベラルアーツが必ずしも同じでないことは明白であろう。
吉见氏:中世のリベラルな知は「移动の自由」の水平性と「地元の権力と対抗するために特権的な権威と结びつく」垂直性、この両者によって成立していました。12世纪から13世纪にかけて都市ネットワークが形成されたヨーロッパで、优れた学者のもとに何ヶ月もかけて移动し学びを求めた学徒たち。彼らは、ローマ教皇や神圣ローマ帝国皇帝といった特権的な権威と结びつき、地元の政治势力に胁かされつつも、それを超越する権威を锦の御旗になんとか自由を确保する。このダイナミズムによって大学の原型が形成されました。
岩切学长:その他にも、社会的な自由や学问の自由、知的な自由など様々ありますが、「自由」はやはりリベラルアーツの根本的な侧面と私も考えます。
现代の日本において、宪法に记载される「学问の自由」は当たり前のものとして捉えられているであろう。しかし、大学の黎明期を振り返れば、「自由」が有していた意义は现代よりはるかに强大であり、それが受け継がれ深化した教育が现代のリベラルアーツと言える。
「学问の自由」が日常となった日本において、これら根本の理解が不足し「リベラルアーツと教养の混同」が生じるのは当然のことであろう。一方で、「自由」と「教养」という2つの意味合いが混ざり合い现代の大学の构造が确立されてきたことも事実であり、课题とも言える。
Paragraph 02
「リベラルアーツ?カレッジ」として献学された滨颁鲍。
唯一无二のグローバル?スタンダード。
「学ぶ行為自体に価値を持つ学问」と语られたリベラルアーツは、滨颁鲍において「人间性の全体的な発达と人格の成熟を目指す教育」として核であり続けている。このパラグラフでは、二人の対话から滨颁鲍の「リベラルアーツ?カレッジ」としての特徴を浮き彫りにする。
吉见氏:滨颁鲍は、アメリカのリベラルアーツ?カレッジを败戦直后の日本に导入しようとして占领期に原型がかたちづくられた大学ですが、良い意味で、ここにはアメリカのエリートカレッジが考えていた教育モデルが直输入されてきたように思います。
岩切学长:その通りですね。第二次世界大戦への反省を踏まえ、人类社会の平和を希求して献学された滨颁鲍は、日本のどの大学とも异なる出自を持つからこそ、実験的な场としての意义を有し、独自のコミュニティが形成されてきました。
学生数は约3000人、専任教员は150人ほどで、人数の面でも世界标準のリベラルアーツ?カレッジと同等の特徴を备えています。学生?教员同士のコミュニケーションも活発ですね。一方いわゆる「マンモス大学」では、リベラルアーツを実践するうえで重要な「対话」に重きを置いた教育は难しいと思います。
吉见氏:异なるパラダイムの学びをどう组み合わせるかによって、それぞれの大学の个性が出てきますが、滨颁鲍はその点、非常に上手に组み立てられていると思います。
岩切学长:リベラルアーツを学ぶ上で人文科学(Humanities)、社会科学(Social Sciences)、自然科学(Natural Sciences)、この3つの視点を同時に持っていてほしいとも考えています。
これは、単に文理融合ということではなく、人间と世界に対するそれぞれのアプローチの仕方の差异を自分の中に构造化し、协働させるということです。芸术分野の一回性的な出现に対する视点や、社会的なコンテクスト上の视点、さらには科学的な视点。これらを同时に持つことは、学生が人间と世界を理解する上で大切になります。
吉见氏:滨颁鲍は铃木典比古前学长时代からと思うのですが、大胆にメジャー?マイナー制、ダブルメジャー制を取り入れておられますね。グローバル、特にアメリカの大学では当たり前のことですが、日本の大学ではこうした复线的な教育は例外的な状态です。そういった意味からも、滨颁鲍は日本の大学が目指すべき高等教育をすでに実现していると言えます。
「文理融合」ではなく、「文理复眼」という考え方に立つべきですね。异なるものは异なる。しかし、その异なるものが共存、协働できないわけではない。それぞれを深く、复数の学问视座を身につけさせていくべきで、学びの縦轴と横轴の组み合わせが重要です。
分野を横断した复合的な学び。それを可能としているのがメジャー制だ。31の専修分野(メジャー)を用意し、メジャー?マイナーやダブルメジャーと様々に组み合わせて履修できる。さらに滨颁鲍では、复合的な学びを前提にアカデミックプランニングサポートを行う学修?教育センター等の体制を整えている。リベラルアーツ教育がシステムとして确立されている点が日本の他大学と异なる「リベラルアーツ?カレッジ」としての唯一无二の特色である。
Paragraph 03
カレッジとユニバーシティ、滨颁鲍と东京大学。
その共通点と相违点とは。
前パラグラフでは、滨颁鲍のリベラルアーツを実践する「カレッジ」という侧面が浮かび上がったと言える。一般的には「ユニバーシティ」は学部を复数で构成し、幅広い学びを行っていると考えられる场合が多いが、リベラルアーツ?カレッジである滨颁鲍は复数の学部が存在しない大学でありながら、幅広い学问分野をカバーしている。
日本を代表する「ユニバーシティ」と言えば、东京大学が挙げられるだろう。异なる道を进む滨颁鲍と东京大学であるが、そのつながりは第二次世界対戦后の滨颁鲍献学时に遡る。
1949年6月15日、御殿場会議で色控传媒の基本構想が審議されるより以前の草創期において、東京帝国大学の最後の総長であった南原繁や戦後二代目の総長、矢内原忠雄の学識が非常に大きく貢献したという記録がある。また、矢内原に至っては、1953年の色控传媒の開学式において祝辞を述べている。こういった背景には、帝国大学が抱えていた問題がある、と吉见氏は指摘する。
吉见氏:帝国大学は彻底してファカルティ、学部中心の仕组みでした。その背景には、明治时代に创立された时から西洋のモデルを导入してきた経纬があります。例えば、医学部はドイツ、工学部はスコットランド、法学部はフランス、农学部はアメリカといったように。西洋の先端的な知をできるだけ効率よく输入する「いいとこどり」がなされてきたのです。
こうして生まれたのが、学部によって「縦割り」された组织であり、大学自治というよりも学部自治の强调が、现在の日本の大规模大学のモデルとなったのです。
戦后アメリカ占领军の影响を强く受けつつ、なぜリベラルアーツ?カレッジとしての滨颁鲍が诞生しなければならなかったのか。その问いには、この帝国大学が抱える専门ごとの「縦割り」という明治以来の课题を相対化する视点が存在したように思います。
帝国大学が抱える「縦割り」の课题。対してアメリカのリベラルアーツ的教育モデルを直输入してつくられた滨颁鲍には、学びの水平统合を求める当时の人々の「危机感」が込められていたのかもしれない。
「世界のアカデミックな世界では、グローバリゼーションや水平統合がこれからも進むでしょう。日本の大学が一つの大学、一つのディグリーにこだわり続けていると、やはり取り残されてしまうのではないでしょうか」と吉见氏は警鐘を鳴らす。
滨颁鲍と东京大学。组织やアプローチは异なるがリベラルアーツの重要性を认识しながら、両大学ともに「縦割り」という日本固有の问题に取り组んでいた点は见逃せない。また、このような壁に阻まれていないという侧面において、滨颁鲍は今もなお「真に自由なコミュニティを维持している」と言えるだろう。
Paragraph 04
大学のコミュニティに宿る
滨颁鲍のリベラルアーツと世界通用性。
日本が抱える课题は「縦割り」の教育モデルだけではない。日本では今も、帝国大学的な教育モデルを踏袭した「知识詰め込み型」が中心となっている。それを如実に示しているのが、大学での学生の履修科目数だ。
国立教育政策研究所が2016年3月に実施した调査によると、1~3年次生の履修科目は半期あたり10~14科目、1日に4科目ほど异なる授业を受ける场合も多い。これでは一つひとつの科目に集中することが难しく、知识も定着しづらい。
吉见氏:知の体系を网罗的に教えようとするとその知识は膨大となり、必要な要素を「詰め込む」ことが教育の目的だと考えてしまう。これが日本の大学の最大の问题点です。
岩切学长:その点、滨颁鲍は履修科目数を抑え、1科目の授业を週に复数回履修します。基本的には、1学期の履修科目数は4~5科目程度。同じ科目を1週间にたとえば月?水?金と3回行うことも普通です。
吉见氏:ぜひ、この滨颁鲍モデルを広めてください。国际的には当たり前のことです。1学期当たりの履修科目数が4~5科目になれば、学生はその科目に必死で取り组まざるを得なくなります。1科目の単位数が4単位相当になりますから、「科目を落としたら卒业できなくなる」という意识が生まれます。週に何度も同じ先生と学生が颜を合わせる。知识の网罗主义から少数深掘り主义への転换です。大学の学びは、本来こういうもののはずです。
「言语の壁」も、日本の大学の世界通用性を考える上で大きな课题だ。
例えば、日本よりはるかに早く英语が小学校の必修科目となった韩国の学生や、世界中に积极的に飞び出す中国の学生と比べると、日本の学生の「母语以外の言语能力」は全体として低く、さらに新型コロナウイルス感染症により「内向き志向」はより强くなっていると考えられる。
吉见氏は、「色控传媒の学生は海外留学への意識も高い。日本では特殊な大学のように見えますが、世界を視野に考えると普遍性を持っています。日本の大学全体の特殊性を逆照射する上で、滨颁鲍の普遍性は非常に価値があると感じます」と语る。
これらの课题に取り组むならば、滨颁鲍が採用するバイリンガリズムや复数言语主义、最近流行の国际寮や颁翱滨尝型教育等、様々な施策は存在する。しかし、これらを表面的に教育システムとして採用したとしても、根本的な课题は解决されないことは明らかだ。
冒头の「これからの大学はどう在るべきか」という问いに対する答えは、これらの根本的な课题の先にあると言って差し支えないだろう。
Paragraph 05
今、渇望される「リベラルアーツ」。
その普遍的価値とは。
滨颁鲍は、バイリンガリズムや复数言语主义、そして前述のメジャー制度による复数専攻等、世界に通用する普遍性を有する。最后のパラグラフでは、その世界通用性?普遍性を担保する「滨颁鲍を滨颁鲍たらしめるもの」を二人の対话から読み解きたい。
冒头で记した通り、近年では国内の他大学においてもリベラルアーツの重要性が改めて认识され、积极的に取り入れられる状况である。
岩切学长:近年リベラルアーツを标榜する大学が増えていますが、同じモデルができるのは悪いことではありません。良いものが広まっていっているのだから、「独自性をなくした」「追いつかれた」と考えるのではなく、みんなで一绪に広げていく方向に持っていきたいと考えています。
吉见氏:その通りです。世界から见れば、滨颁鲍の教育が当たり前ですし、そもそも大学教育の根本はリベラルアーツです。长い歴史を通じ、大学を成り立たせてきたのは高度な専门教育だけではありません。リベラルアーツなき大学は、大学というより専门学校になってしまいます。とはいえ、最近では専门学校でもリベラルアーツの重要性が注目されていますね。つまり学问には、「自由」イコール「リベラル」な风通しの良さが不可欠なわけです。
岩切学长:教养学部は法学部や経済学部など他学部と并存していることが多いのですが、滨颁鲍の场合は大学全体がひとつの教养学部ですべてがリベラルアーツ。その中に専门がある。受験生や保护者の方にも、その违いを见てくださいと言っています。
吉见氏:ファカルティとカレッジの対抗ですね。本来、カレッジとの対抗関係でファカルティが存在するので、教养が学部にはなることには根本に矛盾がある。様々なディシプリン、ファカルティを横轴に贯く力をカレッジが持つべきです。この大学全体を贯くものとしてのリベラルアーツの概念は、中规模大学ではかなり国内でも広がっていると思います。
岩切学长:滨颁鲍から大学院に进学した学生は、1年目は知识量の不足で苦労するという话を闻きます。その点は、滨颁鲍の弱点と认识していますが、実は2年目からは他大学出身者と比べても逊色なくなるとも闻いています。弱点をカバーして余りある伸び代が身に付く、それが大学全体をリベラルアーツが贯く滨颁鲍の教育だと思います。
吉见氏:知识には穴があってもいいですよね。领域は狭くても、基本的な考え方や议论できる力をしっかり养う、それこそが日本の大学に求められていると考えています。
滨颁鲍のリベラルアーツ教育は、决して网罗的な知识を身に付けさせるためのものではない。多様な视点やクリティカルシンキング、対话といったファクターにより构成される「学修者本位の学び」であり、「学び続けるための力を育む学び」である。その教育は世界に通用する普遍性を有し、グローバル社会で「まっとうに生きる力」を涵养するものでもある。
「色控传媒を色控传媒たらしめるもの」。それを敢えて明快な言葉で表現するならば、やはり「コミュニティ」であり、キャンパスに根差した「独自のカルチャー」であろう。吉见氏の言葉が示した通りリベラルアーツが全体を貫き、世界通用性?普遍性をもつ色控传媒だけの文化である。それこそが、色控传媒における教育の質の根源だ。
[あとがき]
「リベラルアーツ型大学」の使命とは――。
二人の重层的な対话には、冒头の问い掛けに対する多くの示唆が含まれていた。
リベラルアーツが教养と混同され、深い理解がないまま多くの大学が导入する现状。そこに、リベラルアーツの根底である「自由」は果たして存在するのか。また、「縦割り」という根本的课题に缚られた大学は、「詰め込み型」を果たして脱却できるだろうか。
悲観する必要はないだろう。戦后多くの大学が改革を断行し、発展を遂げてきたように、新しい时代における改革を行うためのモデルケースを见い出せばよいのである。
色控传媒は、「明日の大学」として永遠の実験場であり、確立された教育のシステムを持ち、今もなおそれを深化させている。また、岩切学长を中心に策定された「2021?2025年度 中期計画」においては、「リベラルアーツの社会実装」をスローガンに、さらなる社会への浸透を目指している。
「みんなで一绪に広げていく方向に持っていきたい」という学长の言葉通り、大学の在り方を示す“リベラルアーツ型大学”のモデルとして、教育に関わる多くの人のための「明日の大学」であり続けるだろう。
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Sub Dialogue
“知”が交わる対话録
交差するクラスマネジメントの知见
本编には记载しきれない程、二人の対话には多くの事例が登场した。
新たな学びを绍介しあう、ふたりの対话。
- 岩切学长
- プルーストという作家の小説に、次のような言叶があります。「かつて本のなかで読んだある名前は、シラブルのなかに、その本を読んでいたときに吹いていた强い风や、そのとき照っていた太阳を含んでいる」と。あることを学ぶときに、知识がどのように成立したか、周りの环境と一绪に记忆する経験は大切ですよね。オンラインを活用した教育では难しい部分ですが、その点は抜け落ちさせたくないなと思います。
- 吉见氏
- オンラインといえば、面白い事例でミネルバ大学がありますね。キャンパスを持たず、授业はオンライン。しかし、これはオンライン?ユニバーシティではありません。ここが重要で、世界の7つの都市に学寮を置き、学生に世界を旅させる。キャンパスは、世界の都市の中にあるという考え方です。学生は现地の様々な现场に入って苦労を重ねる。その上でのオンライン授业です。ポストコロナだからといって、安易なオンライン化は大学を杀します。
- 岩切学长
- オンラインに移行するうえでは、厂罢比は重要な要素ですね。滨颁鲍の场合は少人数のゼミ的な授业が中心なので、比较的移行が容易だったのではと思います。
オンデマンド型の授业もつくりこめば一定の意味を持つと思います。しかし、それが増えていくのは大学としては问题ですね。少人数授业への移行は、オンライン化の重要な前提になると思います。一方で、いろいろな理由でキャンパスに来られない人にも学びを提供できる点では可能性が広がりますね。
吉见先生はハーバード大学でも教鞭を执られていますが、现地でクラスマネジメントにおいて実感されたことはありますか。
- 吉见氏
- 教育には必ずしもプロフェッサーはいらない、良い罢础の存在が大切と感じました。距离が近くしっかりした罢础がいれば、ディスカッションもより豊かになるのです。
- 岩切学长
- チームティーチングの考え方ですね。滨颁鲍でもぜひ取り入れていきたいです。
- 吉见氏
- ヨーロッパの大学では、大学间を渡り歩ける仕组みがあります。それも兴味深いです。
PROFILE
岩切 正一郎 学长
国際基督教大学学长。専門はフランス文学。2008年には第15回湯浅芳子賞(翻訳?脚本部門)を受賞。パリ第7大学テクスト?資料科学科第三課程修了 (DEA)。国際基督教大学アドミッション?センター長、教養学部長を経て2020年4月より現職。
吉見 俊哉 东京大学教授
东京大学大学院情报学环教授。専门は社会学、文化研究、メディア研究。东京大学新闻研究所助手、助教授、东京大学社会情报研究所教授等を経て、2004年より现职。また、东京大学新闻社理事长、东京大学出版会理事长なども歴任。
企画制作?执笔协力:株式会社奥础痴贰



